抗がん剤の副作用の一つとして知られている脱毛。事前にどんなに説明されていても、想像にあまりある苦しみです。

なんとかこの苦痛を救うことができないものか。試行錯誤を繰り返した末、脱毛を防ぐ方法を考え出した会社がイギリスにあります。実用化にこぎつけたのはPaxman Coolers 社。「頭部を冷やすことで脱毛を防ぐ」というあまり聞いたことがない方法です。

実はイギリスには抗がん剤治療中に頭を冷やし脱毛を防ぐという方法は、50年ほど前からありました。ただ効果が出る人の割合はとうてい満足できるものではなく、長年頭部冷却の研究は全く進むことはなかったのです。

Paxman Coolers 社のCEO(最高経営責任者)Richard Paxman氏の母親も乳がん治療中にこの頭部冷却法を試してみましたが、残念ながらいい結果は出ませんでした。その苦い経験がありながら、Paxman氏は自分ならこの機器を改善してもっと効果のあるものを開発できるかもしれない、と思ったのです。

Paxman Coolers社の前身はビールの冷却システム開発会社

Paxman Coolers社のCEO Richard Paxman氏の父親とその兄弟は長年ビールの冷却システムの開発販売に携わり、その分野で成功を収めていました。

ところがPaxman 氏がわずか10歳の時に母親が乳がんと診断され、抗がん剤治療を受けることに。その当時にはすでに頭皮冷却システムは存在しており、Paxman氏の母親も予防治療を受けましたが、前述のように結果は思わしいものではありませんでした。

当時を振り返りPaxman氏は「母親の髪の毛がどんどん抜けていったのを思い出します。自分の母親が泣くのを見たのはこの時が初めてでした。ある日私の姉が、脱毛の止まらない母親の髪の毛を切ったのですが、姉にも心理的な影響が大きかったようで、大変なショックを受けていました」と、脱毛が治療者本人だけでなく、周りの家族にも大変な影響があることを自らの体験から語っています。

Paxman社家族
Source:https://paxmanscalpcooling.com/

「父はどうして既存の頭皮冷却システムに思うような効果が出ないのか、考え始めたようです。自分がビール冷却システムの開発者であることから、分野は違うものの、今までの蓄積した知識と技術でなんとか状況を改善できないものか。自分の家族のためには間に合わなくても、将来この同じ苦しみを経験する患者をすこしでも少なくしたい、と新たなシステムの開発を始めたのです。」

そして1997年にPaxman 氏の父親は、頭皮冷却システムの第一号機を完成させました。第一号機はイギリス国立病院の一つに設置され、その後も改善を重ねている間、息子であるPaxman氏は将来家族のビジネスを継ぐつもりで、マンチェスター大学理工学部を卒業(マンチェスター大学:イギリスの名門国立大学で、ノーベル賞受賞者数がイギリスではケンブリッジ大学、オックスフォード大学に次いで第三位の25人。世界初のコンピューターは1948年に同大学で生まれている)。

抗がん剤治療で脱毛が起こるのはなぜ?

抗がん剤の使用で脱毛が起こることはよく知られていますが、それはどうしてなのでしょうか?

身体を蝕むがん細胞は、増殖をするという性質を持っています。細胞の代謝と大きく関わっているため、がん細胞の増殖を阻害する目的として抗がん剤が使われるのですが、必ずしもがん細胞へピンポイントに作用するわけではありません。

人の細胞は日々生まれ変わっているのに、抗がん剤は通常の細胞の代謝も抑制してしまいます。他の細胞と同様毛の細胞(毛母細胞)にも影響を与え、成長が阻害されてしまうのです。

全ての抗がん剤に脱毛の副作用があるわけではなく、脱毛が起こりやすいものも、起こりにくいものもあります。しかし脱毛が起こりやすい抗がん剤を使用した時に一番影響があるのは、(頭の)髪の毛です。それは髪の毛が体の他の毛に比べると、非常に細胞分裂が盛んだからだといわれています。

脱毛が患者に与える心理的影響

Paxman氏は母親の経験や何人ものがん患者に接して、「抗がん剤による脱毛は生活の質に関わってきます。精神的に落ち込んだり、ストレスを感じたり、心理的な影響は多大です。人間関係に影響が及ぶこともあるといわれており、私と母親との間にも微妙に変化があったと思います」と述べています。

イギリスの調査では8%程度のがん患者が、脱毛に対する不安から抗がん剤による治療を避けているそうで、「抗がん剤治療を受けた患者さんが私の会社の機器を使って脱毛を防げることが一番大切なのはもちろんですが、この8%の患者さんの不安を解消し、受けるべき抗がん剤治療を受けられるようにすることも目標にしています。脱毛の不安なく抗がん剤を使うことができれば、私の会社の作っている製品にも存在意義があるのでは」と思っているそうです。

Paxman社の頭皮冷却システムとは?

脱毛を防ぐ目的の頭皮冷却システムは、イギリスでは50年ほど前から用いられている医療法で、最初は砕いた氷を止血帯で頭に巻き付けるというものでした。その後氷はアイスパックに代わり、徐々に頭にキャップをかぶり機械でそのキャップを冷却するという方法に変化していきました。

同社の冷却システムは頭皮を19℃に冷やすことで、血管収縮を誘発し毛包への血流の量を制限します。血流が減ると細胞膜への薬剤の浸透が減り、抗がん剤が毛細胞を標的にするのを避けることができるのです。結果的に抗がん剤が毛細胞へ届く量が減り、髪へのダメージを最小限に抑えます。

Paxman社頭部冷却システム
Source:https://paxmanscalpcooling.com/

抗がん剤治療の30分前、抗がん剤投与中、そして投与後90分キャップを被り頭皮を冷やします。

この冷却システムが過去のものと違うのは、20年以上の研究により理想の冷却温度が19℃であることを突き止めた点と、温度を一定に保つシステムを持つ点、キャップの内側をシリコンで覆い(シリコン内に冷却する液体を流す)外側を断熱性に優れたネオプレン(合成ゴム)で覆っているので、頭皮と密着性がある点です。

現在タキサン系の抗がん剤に対しては63%、アントラサイクリン系に対しては24%の成功率となっています。

まとめ

抗がん剤による頭部の脱毛は見た目のみならず、精神的なダメージが大変大きなものです。副作用だからしかたがないとまでいわれていたところ、Paxman社の頭皮冷却システムの登場で、治療中の一つの選択肢として取り入れられる可能性が出てきました。

現在日本も含め世界32か国で、2,000台以上が使われています。同社は2020年までに成功率を80%にまで上げることを目標にしているそうです。